The AINU in Ethnographic Films

アイヌと民族誌映像 アメリカのスミソニアン研究所国立自然史博物館は、アイヌに関する大企画展を行いました。下記のレポートは、そのカタログのため執筆した原稿です。AINU Spirit of a Northern Peopleは、415頁におよぶ大型のカタログ(英文)で、ワシントン大学出版所から発売されています。ISBN 0-9673429-0-2


アイヌの古い映像を捜しています
映像の100年の中で、とりわけ重要なのは、前半の50年に記録された映像です。東京シネマ新社では下中記念財団EC日本アーカイブズと共同して、旧いアイヌの映像の収集・復元などを行ってきました。いまでも何とか見付けられないかと捜している映像が幾つかあります。

たとえば、フレデリック・スター博士の沙流川流域で記録した映像、ニール・ゴードン・マンロー博士の二風谷で記録した熊送りの記録のオリジナルネガなどです。

お心当たりのある方は、info@TokyoCinema.net へご連絡下さい。



  
カタログ              ニール・ゴードン・マンローと二風谷アイヌの長老(貝澤イソンノアシ氏 AINU Creed and Cultから)

 
マンローの記録したウエポタラ 悪霊払いの儀礼 1930年代前半
メノコル 女便所の神に祈る      ルコロカムイに祈る呪術      八つの関門を焼き払って悪霊を退ける


Arctic Studies Center of National Museum of Natural History, Smithsonian Institution held an anbitious exhibition "AINU Spirit of a Northern People" in April, 1999.
OKADA Kazuo wrote an article "The AINU in Ethnographic Films" for the catalogue of the exhibition. Following is Japanese original text.


アイヌと動画像  AINU in Moving Images  

一般には、フランスのリュミエール兄弟によってパリのカフェーでシネマトグラフがされた1895年が映画の始まりと言われている。映画は、その始まりから人類学者に、民族誌の記録手段として注目され、様々な国で様々な民族学者が初期の映画を研究の記録に利用している。さてアイヌが最初に映画に記録されたのは1897年の秋である。従って、動く映像の100年にわたる歴史は、アイヌがいかに記録されてきたかの100年でもある。そのアイヌの民族誌映像の時代的な区分は、筆者は次のように分けることができるのではないかと思っている。映画の歴史においては、劇映画に描かれたアイヌ像の変遷の分析も面白いが、ここでは純粋に民族誌的な記録について考えてみたい。

1) 専ら外国から来た研究者や職業映画人によって記録された時代
 
1896年末に、リュミエール社は日本におけるシネマトグラフの公開にあたって、映写技師兼撮影技師であった、コンスタン・ジレル(Constant Girel)を、日本に派遣した。ジレルは、1月に日本に到着し、2月に大阪、3月に京都でシネマトグラフを公開した。同じ月に東京でもシネマトグラフは公開されている。ジレルがカメラマンとして日本各地で撮影した映像は、17テーマ残っているが、うち2本がアイヌに関するものである。アイヌを記録する目的で彼は10月、北海道の室蘭へ赴いた。何処の集落で撮影したのかの記録は定かでないが、フランス人宣教師たちの協力で、彼はアイヌの男性と女性の,それぞれの舞いを、記録している。それぞれ1分に満たない短い映像だがすばらしいものである。彼は室蘭の港から鉄道に乗り換え原生林の中を数10キロ走り、さらに60キロを馬で行ったと、10月18日に函館で書いた手紙に記している。 「私たちはお土産の果物とサツマイモ、お菓子を手渡し通訳はアイヌの人たちとうまく話を進めてくれたので、かれらはよろこんで踊りを披露してくれました。女性だけの「鳥の踊り」と男性だけの戦士の踊りのふたつです。翌日、この美しく気高い威厳に満ちた人たちと別れるとき、私たちは胸が痛むような感じがしました。彼らは大和民族に屈して、少しずつだが、確実に消え去ろうとしてい る人たちです。文明と西欧化が野性的なものを凌駕していく、これがまさに生存競争なのでしょう。(映画伝来 p.59 2 ジレルとヴェール 光田由里 1995 岩波書店)) 
 
Association Freres Lumiere LES AINUS A YESO 1897

ジレルが撮影したアイヌの映画は、1898年の夏に大阪では「北海道アイヌ男女の踊り」、名古屋では「北海道土人アイノの熊踊り」と題されて上映された。これが、日本においてアイヌがスクリーン上で紹介された最初である。 

20世紀の初め、第1次世界大戦以前のアイヌを映画に収めたという記録は、1904年のシカゴ万国博覧会にアイヌの一家4人をアメリカに連れて行ったことで知られるシカゴ大学の人類学者、フレデリック・スター教授が、写真とともに、彼の助手に映画も撮らせた。撮影地は沙流川流域というが、その映画は所在は不明であり、撮影した項目のリストから内容を想像するほかない。インターネット上で公開されているオクスフォード大学社会人類学教室の初期映像人類学所在情報データベースであるHADDONには1912年に公開されたアメリカ製のアイヌ映像で、ドイツ語の字幕つきのもが英国国立映画アーカイブズにあるとしている。これがスター博士らの手になるものの一部なのか否かは、調査を要する課題である。 

 美しき日本 白老アイヌの古老達 1918

第1次世界大戦の後、アメリカの旅講演師、ベンジャミン・ブロツキー(Benjamin Brodsky)は、1918年から19年にかけて日本を訪れ、日本国有鉄道や日本交通公社の協力を、撮影スタッフと機材を運ぶ特別列車を仕立て日本各地を巡回した。彼はその成果を「美しき日本(BeautifulJapan)」にまとめたが、そこには白老アイヌの熊送りの映像が入っている。彼が当時の駐日アメリカ大使に贈り、その後、大使の遺族からスミソニアン研究所の人間科学フィルムアーカイブズ(HSFA)に寄贈された映像で見ると、熊を実際に、神のもとへ送る部分
が無いので、映画のために熊送りの様子や芸能を演じてもらったものと思われる。


2) 日本人研究者の手による記録が始まった時代  

日本の映像人類学の始祖は誰なのか?異論があるかも知れないが、一部の人は鳥居龍蔵の名を挙げるだろう。事実彼は素晴らしい異民族の写真を沢山残している。しかし、彼が映画を駆使したか否かは、あまり定かではない。彼が撮影した1912年に東京上野で開かれた拓殖博覧会の会場風景写真によれば、会場内には北海道と樺太のアイヌの家が実物展示されるとともに観光館という映写室設けられ、そこでは、樺太アイヌの生活の模様が、日露戦争の結果、新たに領土となった地の、ロシア文化の影響とともにスクリーン上で紹介されていた。この映像もまた、その後如何なる運命を辿ったか、我々はその所在を知らない。 

その中で実在している最も古い日本人研究者が関与した映像は、北海道帝国大学農学部の動物学者で、農学部付属博物館の主任もしていた八田三郎教授が1926年に東京で開催される氾太平洋学術会議で公開しようと 1925年に記録した、「白老アイヌの生活」である。それは、集落に新たに掘られた用水供給用の井戸での女性たちの水くみや、荷物の運搬、男女古老の挨拶、アツシ織りの様子、結婚の儀礼、病気の治療、葬式、熊送り、サケ漁などを記録している。 

八田は、当時、東京で、啓明会という学術振興組織が催したアイヌに関する講演会で自分の映画を上映すると同時に、自分がなぜその映画を記録することに努力したかの理由を講演しようとした。(原稿は用意したが、時間の都合で講演は割愛し映写と映画の内容説明のみとし、講演録に掲載した。)そこで注意を引くのは、既に 1920年代、アイヌの文化変容は急激に進んでおり、撮影された映像が当時の、アイヌの生活ぶりを忠実に記録したものではなく、既に日常からは消えようとしている、あるいは消えたものを復元し映像化したと言うことである。八田は、自分が管理する北大農学部の博物館に保管されているアイヌの民具が、ほとんど、当時のアイヌには既に使われていないことに衝撃を受けたのであった。 

この八田の映画は、原版が北海道大学に保管されていたが、葬儀の部分が第2時大戦後の混乱期に紛失していた。1990年代になって、葬儀部分が1920年代末期に作成された英語版ポジプリントの形で存在することが判り、このプリントと残存原版からの画像をビデオ転換することによる復元が筆者らの手によって行われた。新たに日英両語の中間字幕を作成し、利用しやすい形にまとめらえている。 

1930年代になって、1900年代の初め日本に帰化したスコットランド人の医師で考古学でもあったニール・ゴードン・マンローは、1920年代に二風谷に通ってアイヌ研究を始め、後にはそこに居を定め、高齢で死ぬまで同地に留まった。英国王立人類学会(RAI)関係者などの支援でロックフェラー財団の研究助成金を得た彼は、映画による記録に着手し、熊送り儀礼「イヨマンデ」の記録を1931年に行った後、1933、34年に悪霊払いの儀礼であり病気の平癒祈願でもある「ウエポタラ」と家の新築祝いの儀礼である「チセイノミ」の記録を行っている。マンローが英国王立人類学会に送ったコピーは16mm プリントだったが、もともとは35mmネガフィルムで撮影され、画質も素晴らしいものだった。「イヨマンデ」は、いわば映像化された学術論文のようなスタイルで、イナウなどの詳しい解説が字幕と図によって示されていて、その部分が全体の1/3を占めていた。
 
 マンローの記録したウエポタラから 1930年代前半

「イヨマンデ」が、映画作品として完成されたのに対して、「ウエポタラ」と「チセイノミ」は、完成作品とはならなかった。マンローは、北大などでこれらの映画を上映して見せているが、第2次世界大戦の勃発の混乱の中で死去し、その遺品は逸散する。マンローの係わった映画のその後の経緯には不明朗なものがあるが、1960 年代に「イヨマンデ」の35mmポジプリントが「発見」され、熊送りの儀礼部分を中心とした再編集が行われた。この再編集を行った人々は、英国王立人類学協会とは全く交流がなかった。彼らは、英語版の配給権をカリフォルニア大学バークレー校のExtention Media Centerに委託した。 

英国王立人類学会は、自分たちのところに送られた 16mmプリントをオリジナルであると考えていたので、この事件は不快なものであった。アイヌにとっても当惑する部分があった。二風谷で撮影された映画であることが明らかであるのに、この再編集を行った人々は、静内で録音されたユカラを効果音としてこの作品に付加したのであった。1960年代なかばには、まだマンローの被写体となった人々のうち、若い世代に属する人や古老たちの係累が沢山生存していた。しかし、映画の再編集を行うに当たって、現地との連絡はなく、二風谷のアイヌが、この映画を始めてみたのは、映画の再編集が行われてから、10年以上も後の1975年、マンローの旧宅跡にマンローの顕彰碑が二風谷のアイヌたちの手によって建てられたお祝いの席であった。再編集を行った人々の行為は善意から発したものではあったが、現在の我々の判断基準から考えるならば、疑問な点が少なくない。 

筆者は、この再編集を行った人々が、「発見」したプリント自体には手をつけず、デュプリケートネガを作って再編集に当たったということなので、元のポジプリントの入手を希望しているが、所在がまだ不明で実現していない。「ウエポタラ」と「チセイノミ」のプリントは、なぜか理由は分からぬが、北大農学部の八田三郎教授の「白老アイヌの生活」のフィルム缶と共に、八田のフィルムの一部として保存されていた。1970年代に筆者は、明らかに性格の異なる映画が混在することに気づき、まもなくマンローの死後出版された、遺稿集「AINU Creed and Cult」に掲載されているExorcismの儀礼の写真と同一内容のものであることが判明した。 

この「ウエポタラ」と「チセイノミ」は、二風谷でその祖母がマンローのインフォーマントであった優れたアイヌ文化の伝承者、萱野茂の協力により、1992年にマンローの著作の展開に従って再構成したビデオという形で復元された。双方のビデオは、ともに日英両語の中間字幕が付されている。 

北大の動物学者である犬飼哲夫も、1936年に、旭川近郊の近文の古老で、自らアイヌの伝統文化の保存に努力したことで知られる川村カネトが主宰した熊送り儀礼を記録している。興味深いのは、白老、二風谷、近文それぞれの映像を比較してみると、熊送り儀礼の全体を通じての共通点と地域による相違点が見て取れることである。 多分、この時代かなり多くのアイヌ文化がニュース映像などの形で記録されたに違いないのだが、日本の他の地域のささやかな伝統文化に関する映像記録と同様に残存しているものが極めて少ないのは残念なことだ。


3) プロダクションや職業映画人によって記録された時代  

アイヌ文化が貴重なものだという言葉に反論するものは、あまりいない。たとえ、その文化を尊重せず、あるいは過去のもと見なしている人々でも、同じように重要だと答える。戦後もアイヌの記録は断続的に行われてきた。北大医学部教授で、形質人類学者であった児玉作左右衛門はアイヌ有形文化のコレクターとしても知られていた。彼は、晩年に「アイヌの装い」という教育映画を監修している。

製作費を負担したのは、北海道の教育委員会であった。カラーフィルムの時代になって、記録映画は専門のプロダクションや、職業的な映画人によって記録されるようになった。しかし、初期にはアイヌは、あくまでも被写体であったり、協力者の域を出なかった。アイヌの装いには、若い時代の萱野茂夫妻が出演している。

  アイヌの装い 1960年代の再現撮影

4) プロダクションや研究者とアイヌの共同作業が実現した時代  

しかし、1970年代ごろから、徐々に状況は変わってきた。アイヌの側でも萱野茂などは、積極的に映像製作に関与するようになる。これには、被写体となる人々との交流を重視する優れた映像作家の働きかけもあった。姫田忠義ら民族文化映像研究所のスタッフは、萱野茂と長期にわたって共同し、結婚式('71)や家造り('74'、熊送り('77)、子供たちの遊び('78・84)、丸木舟づくり('78)、などなど、興味深い優れた作品を継続的に作っていった。それは、あくまでも和人の映像作家たちの仕事ではあるが、アイヌの意志が映像作品の中により強く反映していることは疑いない。

継続的な仕事と言う点では、札幌に本拠をおくアイヌ無形文化伝承保存会が、年賀はがきの補助金を受けて、つづけてきた活動にも触れておく必要があるだろう。早急に記録しなければならない伝承に必要とする資金と実際に受けられる補助金のギャップは大きいが、実際に行われてきた作品の数は、継続が力であることを如実に物語っている。これらの記録の中では、既に世を去った様々な地域を代表する古老たちが、自分たちの伝承を世代を越えて、現代の若者に自分たちの継承してきた文化を伝えてくれている。


5) アイヌ自身による記録も可能になった時代  

1980年代になって、誰でもビデオで映像を記録できる時代がやってきた。90年代も終わりを迎えた今、その動きはますます加速されている。まだ、その記録を整理して行くのは容易ではないが、とにかく記録は誰にでも可能になった。我々が知らないところでも、多くのアイヌの家に家庭用のビデオカメラと記録者が存在している。職業的なアイヌの映像作家は知られていないが、アマチュアは数多く存在している。二風谷でアイヌの子供たちにアイヌ語教育を行うことに力を入れている萱野志郎は、アイヌ文化の伝承者である自分の両親、萱野茂夫妻の「トノトカムイ」御神酒づくりを素朴だが新鮮な感覚で記録した。

萱野志朗 トノトカムイ 1990年代はじめ

ナレーションを入れる手間を省いて、撮影中に撮影者自らがコメントを入れ、被写体である文化の伝承者たちと問答を繰り返していく手法は、意識的なものかどうかは差しおいても、見るものに新鮮な印象を与えてくれた。 多分、大切なことは萱野志郎が、90年代のはじめに試みたような、ささやかな試みがそれぞれのアイヌのコミュニティーで行われていくこと、それが一番重要なことなのだと筆者は思っている。

それと共に、充分な公的な予算がつくならば、世界中に逸散したアイヌの古い映像が集中的に収集され、比較検討が容易になること、研究者だけでなく、多くの文化伝承に関心のあるアイヌ自身が利用できるものとなることが必要だと思う。


この小文で取り上げた映像の大部分は、北海道では網走の北海道立北方民族博物館で、視聴可能です。また東京の財団法人下中記念財団EC日本アーカイブズでは、視聴だけでなく貸し出しも可能です。本ホームページには利用可能な映像のリストが掲載されています。


1998.09.21. 最終更新 2007.12.01.

国立歴史民俗学博物館のための映像製作「AINU Past and Present」が2006年秋に日本語版が、2007年春に英語版が完成しました。N.G.マンロー博士の作品「カムイ・イヨマンデ」の辿った数奇な運命が意欲的に解明されています。この制作活動の中で、初めて英国にある資料と日本国内にある資料の突き合わせが可能となりました。現在、マンロー関連資料デジタル化プロジェクトが3年計画で進行しています。今後、上記カタログに書かれている内容にも補足修正が必要になりそうです。



Go to 伝統文化の記録

Go to 北方民族の映像

Return to the Top Page